由緒縁起

 当山は、もと三論宗に属し、東大寺別当勤操(空海の南都の師) が千ケ寺建立の際の一寺と思われ、喜見城院と言った。開創年代は不明であるが、奈良朝末期、恐らく七五〇年に近い年代の頃と考えられる。
 日蓮聖人は寛元四年(一二四六)から宝治元年(一二四七)にかけて南都六宗研鑽のため、奈良にご遊学あそばされた。
まず元輿寺に入って倶舎宗を、次いで東大寺で華厳宗、興福寺で法相宗、法隆寺で三論宗、唐招提寺・西大寺で律宗を研究され、さらに薬師寺の経蔵に入って一切経を閲読された。この間、喜見城院を拠点とされ、一番長く滞在されたと伝えられている。
 応仁二年(一四六八)、時の住持即俊が、宗祖の霊夢を見て日蓮宗に改宗、寺号を喜見院と改め、京都大本山本国寺第十一世大聖院日尭を開山に迎え、自らは第二世に就いた。翌文明元年、本堂・番神堂を建築して寺観を一新、教勢また大いに振ったが、後年(元亀・天正の頃)火災に遭い、堂字悉く焼失して廃虚となった。
 江戸期に入り寛永の頃、京都本国寺執事の喜見院日便来たって復興に挺身、篤信の浄信院日英尼ら多数宗徒の外護協力を得て、承応二年(一六五三)、本堂・庫裡・山門等を再建、寺域を整備して復興を果たし、寺号も日蓮聖人ご出家の時の御名「蓮長」を冠して光映山蓮長寺と改め、大本山本国寺末頭となり、今日の基礎を成し逐げた。
 以来今日に至っているが、この間、貞享l一年に鐘堂(後年倒壊)、寛政三年に妙見堂、昭和六年に客殿「法悦荘」が建立され、さらに昭和五十四年に山門が再建された。
 なお、本堂は大和郡山城主豊臣秀長公建立の寺「西岸寺」本堂を移築したと伝えられ、昭和六十二年、国の重要文化財に指定されている。また、平成元年、妙見堂を再建、番神堂を復元し、平成二年には、中興開山書見院日便建立の書院「要法庵」が再興された。平成十年には、立教開宗七百五十年を記念して、鐘楼を再建した。
 吉川英治著の小説『宮本武蔵』にも登場する当山は、宗祖南都ご遊学ご寄錫の霊跡として、日蓮宗宗門史跡に指定されている。
 因みに当山には中正院日護作「宗祖ご真骨入りの祖師像」や「鬼子母神・十薙利女像」、狩野元俊筆「釈尊捏柴図」などが格護されている。